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2006年11月14日 火曜日
試行錯誤とアジサイの花
あまりに悲しい連鎖がおこっている。大人も子供もその連鎖に巻込まれていく。悲しいナ・・・と、店主がいくら気をもんでもどうにもならない。
で、前回、引用した養老孟司の「考えるヒト」という本から、再度、知恵を借りる事にした。「意識万能の社会」の次の項の「意識と時間」の部分。
不評なのは店主もわかっているのだが、他にうまく説明できる文章を知らない。再度、養老先生、m(-_-;)m
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意識と時間
「ああすれば、こうなる」型の社会では、さらに違った側面が現れる。その一つは、時間の変質である。頭のなかでは、時間は過去、現在、未来に三分割される。ところが時間直線を描けばわかるように、「現在」とはその時聞直線の上の一点に過ぎない。それはただちに未来から過去へと繰り込まれる、時の瞬間に過ぎないのである。もちろん常識はそうはいわない。なぜなら、われわれは現在とか今とかいう表現をたえず用い、しかもその「現在」という時は、実質的な時間幅を持つことが当然の前提だからである。それなら、そのように日常的に使われる「ただいま現在」の意味とはなにか。それはすなわち「予定された未来」を指すのである。「ああすれば、こうなる」で囲い込まれた時だ、と表現してもいい。具体的にいうなら、手帳に善かれた予定である。来月の三日は、会社の創立記念日だから、これこれこういうことをする。それが決まれば、その日までに「どのような準備をするか」は決まってしまう。そのためには、今日、知り合いの店に電話をしておかなければならない。当日には自分は会社を休むわけにはいかない。したがって地方への出張は、その日を避けることになる。こうして、来月の三日に予定があるということは、現在をすでに強く拘束する。そうした拘束された時、それをわれわれは現在と見なすのである。
それなら未来とはなにか。本来の未来とは、なにが起こるかわからない、「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。子どもが育ち始めると、母親はこの子をどの幼稚園に入れて、と考え出す。その幼稚園が終わったら、どの小学校に、そのつぎにはどの中学から高校へ、どの大学のどの学部へ、と考える。こうして「漠然たる」未来は、現代社会ではただちに拘束され、急速に失われていく。大人はそれでちっとも困らない。自分ではそう思っている。ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけの体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しない」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底的に排除する。人の一生でいうなら、生老病死を隠してしまう。人はいまでは病院で生まれ、いつの間にか老いて組織を「定年」となり、あるいは施設に入り、やがて病院で死ぬ。日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化するのである。
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「考えるヒト」養老孟司・1996年筑摩書房刊・(第六章 意識と行動・意識と時間の部分)よりP143〜P146を引用
難しいことだけど、一度、自分の手帳を捨てて、明日は何をしたらいいのか、試行錯誤をしてみては如何なものか・・・と店主は思っている。
人間はそれほど絶望的な生き物ではないと思う。確かに、店主もよく絶望するけど、その事は寝て忘れる事にしている。
で、とことんイヤになると、カメラを抱えて雑木林に逃げる。そこで、植物を見ていると、人生、ほとんど思い通りにならない事の方が多いと、思い知る。
自然は一見、同じ事を繰返しているように見えるけど、実はとてつもなく試行錯誤を繰返している。思い通りにならないところでも、植物は試行錯誤を繰返して、それなりの花を咲かせる。そして、自分はこれからくらべれば、ほとんど試行錯誤をしていないと、思い知らされる。
だから、死ぬな。生きて試行錯誤をして下さいナ。(^_^;)
で、今日の一枚は、枯れたアジサイの花。店主の試行錯誤して見つけた形。去年もいいモノはないかと思って捜し回ったが、気に入るものがなかった。
アジサイは花が終ると伐られてしまう。伐られる理由は理解できるが、伐らないでいるとこんな形が見られる。枯れたものには意味がないと思っているのも、意識である。
だから試行錯誤をしながら自然を見ていると、枯れていても綺麗なものはいくらでもあると、気が付く。
でも、そんな事を言うと、変わったヤツと見られる。まぁ、言いたい人には好きに言わせておけばよい。店主が嫌いなのは、嫌いな事をわざわざと相手に伝えるヤツ。なんともデリカシーのない人間が多いことか・・・
で、これがその枯れたアジサイの花。
投稿者 店主 : 2006年11月14日 19:03