2009年7月 8日 水曜日
タスマニアとウイグル
また、休日に長い日記を書いている。と、言ってもほとんど抜粋。店主が書く判りづらい記述より、もっと良いものがあれば、そちらを書いておいた方が、ましと思っている。
で、ウイグルで何がおこっているのか、店主には正確に知る方法がない。しかし、民族という言葉と暴動という言葉があれば、おおよそ何がおこっているのか想像はつく。
富と力を持ったものが、少数派の民族を滅ぼそうとしているのは間違いないだろう。これは歴史の必然でしかない。だから、歴史を少しだけさかのぼってみれば、似たような話はいくらでもある。
今日、紹介するのは、権力者にとっては理想的な少数民族を滅亡させる方法。同時に権力者がいかに無慈悲であるかの歴史的証明でもある。
世界地図の中で考える・高坂 正尭著(新潮選書・昭和49年9月30日 発行)より・第一部 タスマニアにてから抜粋。
・・・・・前略・・・・・
発見と入植
タスクニアの存在がオランダ人の航海者アベル・J・タスマンによって発見されたのは1642年であったが(そのとき、彼は東インド会社ジャカルタ総督ヴァン・ディーマンの名をつけた)、植民は1903年までおこなわれた。なんと言ってもタスマニアは世界の端で支配する程の価値はありそうもない土地だったからである。それに十六世紀と十七世紀のヨーロッパの関心はアメリカ大陸に集中していた。イギリスの植民地がオーストラリアに初めて作られたのは1788年のシドニーにおいてであったが、それは囚人を送るためのもので、遠いオーストラリアがそのために適当と考えられたのであった。それも正確に言えば1798年になって漸く、タスマニアが島であることが発見されたので、それまでは、オーストラリア大陸に付着する半島と考えられていたのである。1803年にイギリスがタスマニア島に植民を決意したのも、その価値を認めたと言うよりは、フランスが先に領有することを恐れたからである。当時、イギリスとフランスは新世界の覇権をめぐって激烈な争いを展開していたのである。政治の世界においては他人への恐怖が人間をして力を求めさせるのである。
1803年にイギリスは三人の役人、七人の兵士、六人の自由人、二十五人の囚人を、相当数の家畜と共に送り込み、その後間もなく十五人の軍人と四十二人の囚人が増強された。さらに1807年には植民者は再び増大された。こうして、植民が始まると共に、タスマニアの土着民とイギリスの侵入者の間で激しい戦いが展開されることになった。タスマニア土人が侵入者に対して敵意を持ったのは当然だが、これ対して、イギリス人も野蛮人を撃ち殺すことをなんとも思っていなかった。イギリスの歴史家によれば、最初の衝突は植民者がタスマニア島に到着した直後におこったが、その責任はイギリスにあったと言う。そしてイギリスの植民者たちは1807年ごろには食料不足と土人の襲撃から一旦非常な苦境に立つが、しかし、程なくイギリス人はタスマニア土人を撃破し、追いつめて行った。1830年には、植民当初五千人ほどいた土着民は二百三人に減って保護地に囲われることになった。そして、1942年には四十四人、1854年には十六人という具合に減り続け、1876年に最後のに生き残った一人が七十六歳で死に、それによって、タスマニア土人はこの世から完全に姿を消したのである。
・・・・・中略・・・・・
滅亡のある条件
そして、その後二十年ばかりして、私はタスマニア土人がなぜ絶滅したかについての、人類学的研究を紹介された。その著者、ポーランド人ルードドヴィヒ・クジヴィツキーはタスマニア土人の絶滅の理由を次のように描いている。
【タスマニア土人は白人に勇敢に抵抗した。そして、数千から数百になったとき、彼らは降伏した。降伏した人びとは羊を与えられ、保護地に入れられた。彼らはそれによって狩猟生活の不安定の代わりに豊富さを得、明日の生活を保証されたのである。しかし、彼らは亡びつづけた。そして彼らが絶滅したことがいかに不可避であったかを理解するためには、生存条件の変化が彼らの内面的生活を破壊したことを考慮に入れなくてはならない。何世紀もの間、タスマニア土人は彼らの島に住み、ときには飢餓にさらされるなど、種々の不安にさらされた(そんなときは、恐らく彼らは子供を食べて生き残ったであろう)。しかし、概して彼らの生活は幸福なものであったのである。ひとつの森から他の森への移動は彼らにさまざまな印象を与え、多くの愉快なスリルを与えた。彼らの共同の狩、集会、割礼式などが彼らの生活の単調さを破り、想像をかき立て、感情を豊かにし、生活に魅力を与えていた。しかし、白人の植民者たちが来て、長年の闘争の後、タスマニア土人は近くのフリンダーズ島に移された。彼らは外見的な物質的福祉に取り囲まれていたが、しかし、以前から持っていた印象と感情の力の豊かさは奪われてしまった。タスマニア土人は狭い地域に押し込められ、彼らの祖先たちの生活を長年にわたって作って来たすべてものと切り離された。次第に望郷の念が強まった。ときどき彼らはよい天気のときにタスマニア島をはるかに見ることができる高い丘の上に登り、絶望的に彼らの土着の島を見た。そんなとき、老婆が熱心に彼方を指して、ベン・ロモンドの雪をいただいた峰を見ることができるのかと男に聞いて、そして、涙を流して言ったものだ。『あれは私の国』ーー生活は彼らにとってその魅力を失ったのである。】
私はこの文章に強い印象を受けた。なぜなら、それは優れた強い文明に圧倒された、劣った弱い文明の悲劇を極限状況において示しているからである。近代に人類の文明はヨーロッパを中心として著しく発展した。人間は疑いもなくより豊かになり、先進国においては飢え死にすることはなくなった。そして、この過程において、西欧諸国の果した役割は否定するべくもない。この過程は同時に、苦しみに満ちたものでもあった。西欧諸国が世界各国に出かけ行った十九世紀から二十世紀にかけての歴史は、文明の発展の歴史であると共に、搾取や征服や闘争の歴史でもあったのである。国際政治学を研究し、西欧文明の拡がりについて研究していた私にとって、この人類学者の文章は、非常に重要な点を浮き彫りにしてくれたのである。それとともに、国民学校のときに聞いたタスマニア土人の滅亡の話が、二十年後、国際研究するという生活のなかであざやかに思い出された。そんなとき、偶然タスマニア大学から招待が来た。だから私は、大きく心を動かされたのであった。
・・・・・以下、略・・・・・
世界地図の中で考える・高坂 正尭著(新潮選書・昭和49年9月30日 発行)より・第一部 タスマニアにてから抜粋。
投稿者 店主 : 2009年7月 8日 13:54
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