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2009年11月10日 火曜日

パブリックアートという貧困

 最近、パブリックアートという言葉をよく聞く。店主にとっては遠い世界のコトのように思っていたが、ギャラリーという空間を作ってしまったコトで、パブリックという言葉が、身近に聞こえてくるようになった。で、気になるので調べて見た。

 ウィキペディアによると次のように説明されている。
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 パブリックアート(public art)とは、美術館やギャラリー以外の広場や道路や公園など公共的な空間(パブリックスペース)に設置される芸術作品を指す。設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。記念碑的なものより、象徴的なもの、コンセプチュアルなもの、建築の壁画、音、風、光などを利用したものも含まれる。・・・
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 パブリックアートの目的は、
* 一つには芸術作品を街や公園に置いて市民に身近なものにするということ。
* 一つには芸術作品の設置によってその都市・場所・住民の歴史、気概、願いを形にして、公共の福祉の向上に寄与し、街づくりに結びつけたり地域共同体の活性化に結び付けたりその都市に文化価値を付け加えたりすることである。・・・
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パブリックアートの歴史
パブリックアートが生まれたアメリカでは、大恐慌後の1930年代、ニューディール政策の下で、公共事業促進局の手で「連邦美術計画」が進められ、多くの失業美術家を雇って壁画や公共建築の彫刻を作らせるなど芸術家支援策が行われた。政府が直接芸術支援に介入したこの政策で、市民の身近に芸術作品が行き渡る効果が得られた。その後、戦後アメリカでは連邦政府や地方政府が芸術家支援のため積極的に芸術作品を発注したほか、1950年代 - 1960年代の都市再開発政策の中で都市に芸術作品が置かれるようになり、パブリックアートという言葉が誕生した。・・・
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 論争
 パブリックアートが増えると、中には自治体が横並びで行う安易な事業が批判されたり、表現をめぐって論争の起こる作品が出現することもある。パブリックアートが起こす不快感(意味のわからない抽象彫刻に対する不快感、逆に陳腐でありきたりな彫刻などに対する不快感、形態・色彩・政治的意図が不快なものに対する嫌悪感)や、手入れの悪いパブリックアートが誰からも相手にされず放置されている悲惨な状態は、しばしば「彫刻公害」と揶揄される。
 彫刻のある街をめざして多くの彫刻が作られたような都市では、しばしば当時の市当局だけが熱心で、市民から作品が遊離していたり市当局の後任者が不熱心になることもあり、後日市民からの反発(「税の無駄遣い」、あるいは「作品とこの場所やこの街に何の関連もない」などの批判)が起こったり、市民からも役所からも関心が失われ、結果メンテナンスが行われず汚れて見苦しくなる作品や壊される作品が出る場合もある。・・・
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 詳しくはこちらをご覧下さい。ウィキペディア(Wikipedia)・パブリックアート

 長々とウィキペディアの言葉を引用してみた。実は店主、このパブリックアートというヤツがどうも好きになれない。どちらかと言えば嫌いな部類に入る。

 何故嫌いかと言えば、アートという言葉はついているが、店主のようなギャラリーにとっては、まったく関係性のない世界だからだ。
 ウィキペディアに羅列される文書をよく読むと(流し読みしても)、そこにはアーティストという表現者の言葉は一切ない。ここで書かれている言葉は、政治や行政、大企業の権力を増大するため、または税金を浪費させるための道具として「アート」が利用さているように読める。

 店主のまわりでパブリックアートという言葉を使うアーティストは皆無である。この言葉を使うのは、アーティストではなく、偉い大学の先生や行政絡みの人たちである。
 簡単に言えば、日本におけるパブリックアートと言うモノは、補助金や寄付金を出させる道具だと、店主は思っている。(発端は、まったく違っている)

 百歩ゆずって、そんなコト、店主にはなんら関係ないことだし、勝手にパブリックアートをやれば・・・と、言ったとする。実はこれが、パブリックアートの一番の問題点なのだ。
 このパブリックアートという考え方の根底にあるモノは、芸術は大衆のものであり、それはいつも自由に接するとコトができるという幻想を生む。
 つまり、アート作品はお金で買うもではなく、誰もが自由に見ることができて、初めてアート作品であると言う勘違いを生んでしまう・・・と言うような気がしてならない。
 極論すると、アートは美術館や博物館、公共施設で見るものであって、そもそも作品というモノは、流通するモノではないコトになる。だからパブリックアートと言うことになる。
 しかし公共性が強くなればなるほどに、アートは価値のないものに変質してしまう。いや、価値がないと言うのではない。公共事業と同じで、箱モノに価値をつける為に、アートを取込みで、その価値を狭い空間で消費してしまうのが、パブリックアートと言えるのではないのか。
 この延長線上にあるのが、行政がおこなう補助金まみれでおこなわれる文化祭のたぐいである。そこで展示される作品の多くは、公平で自由で健全ではあるが、何故か作品の価値判断をする方法が故意に排除されている。
 これがいかにアート作品を、無価値なモノに変質させているのかを、もっと真剣に考えなくてはいけない時期にきているのではないのかと思っている。
 アートはもともと個人が作り出し、その作品に個人が魅力を感じて、お金を出すことがアートの世界を広げる重要な要素だと、店主は思っている。
 これを阻害するのがパブリックアートという概念ではないのかと、最近、疑っている。
 
 そして、ギャラリーと言うものを運営してみて、無名に近いアーティストたちが、多くの素晴らしい作品を作っているかを知ってしまった今、パブリックアートという行政がらみの思想が、アーティストたちを逆説的に貧困に追いやっているのではないのか、感じてしまう今日この頃なのである。

投稿者 店主 : 2009年11月10日 21:50

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