« 大物! | メイン | 深津真也個展! »

2014年9月 9日 火曜日

妄想的一考、その二

 高円寺の中を小一時間ほど歩き回って、今、秘密基地に戻ってきた。クサクサしたときは歩き回るにかぎる。歩き回りつつ、あれこれと考えてみる。考えたところで結論が出るワケではないが、それでも考える。
 それは自分の中で祈りに近いような感じではじまっていた。子供をあやすうれしそうな表情とか、ほほを伝わる涙とか、雨にうたれてはしゃぐ少女とか、澄み切った子供の目とか、収穫の喜びとか、無垢な人々の表情は心を動かす。
 で、この人たちは今は幸福なのか・・・・・この問いはいつの頃からか、しこりのようになって沈殿してきた。だから、祈るしかないという感情が自分の中で芽生えてしまったか。
 生きると言うことは、どこでも困難の連続だ。日本なら幸せなのか?自殺大国になってしまた日本で暮らすことが本当に幸せなのか?どこもかしこも、妙な優越感でイヤな感じがする。

 だから、明日を信じるしかないと、言いつつ、幸せな明日は本当にくるのか?来ないかもしれないけど、とりあえず幸せそうな写真集を作るのか?その幸せって何だ?

 一つ一つ事柄には必ず意味があるはずだと店主は何の根拠もなく思ってしまう。写真一枚を配置するにも意味がある。まとめると言うことはある種の感性を堅牢な形にすることだと思っている。
 写真は理屈じゃない。やらせでない限りは、一瞬の感性でその空間を切り取るしかない。絶対にやり直しはない。それをまとめるというのだから責任重大である。与えられた感性を必死に考えるしかない。

 ただし、同じ写真を見ても受け取り方は千差万別である。ここに罠がある。ここがコワい。誰でも写真を並べることはできる。できるが、なぜそこにその写真が来るのか?それは連続する写真とどんな関係性があるのか・・・
 で、突然、これを入れろと言われて、ハイ、そうですかと言う訳にはいかない。そもそも何でそれが出て来るのか?理由を知りたい。誰それさんが言ったから・・・っての止めてほしい。
 人様のものを触るときは、触る意味が説明ができなければならないと、店主は思っている。そして、最悪のは多数決。ならば、最初から多数決で作ればいい。それで、そこに生きる人々の今を思うことができるならば・・・


 ところで、話は変わるが、先ほどフラフラと歩き回っている時、偶然に今から何十年も前にインドあたりで行方不明になったNの実家の前に出てしまった。しばらくそこのたたずんでいたが、中に入る勇気はなかった。


  パーマリンクのボタンを押し、ページを移動して、ツイートするとタイトルが表示されます

投稿者 店主 : 2014年9月 9日 19:35